「それはまた……すごい決断をしましたね」
その日の夜。
様子を見に訪れた浩正〈ひろまさ〉が、そう言って苦笑した。「ええっと、その……相談してからの方がよかったでしょうか」
「ああいえ、そういう意味じゃありません。ただ何と言うか、すごいことをするなと思いまして」
「そうですよね……」
「ははっ、落ち込まないでください。二人で決めたことなんです、自信を持ってください」
そう言って、ベッドで寝息をたてている大地に目をやった。
「大地くん、よく眠ってるようですね」
「はい。それが私も不思議で……今まですごい量の眠剤を飲んで、それでも眠れてなかったのに。それなのにあっさり眠っちゃって」
「……」
「これってつまり、眠剤なんて必要なかったってことでしょうか」
「いえ、そうはならないと思いますよ」
相変わらず穏やかな笑みを浮かべ、浩正が答える。しかしその言葉から、これからが勝負なんだという思いが伝わってきた。
「今、薬を飲んでない大地くんがどうして眠れてるのか。それは僕にも分かりません。ただ言えることは、今の大地くんの体には、これまでの薬が残っているということです。楽観は出来ません」
「そう……ですよね……」
「ですがそう決断し、実行に移したんです。後は覚悟を決めて、この問題に立ち向かっていくしかありません」
海の肩に手をやり、小さくうなずく。
「薬はもう、全て捨てたんですか?」
「明日がゴミの日ですので、朝一番に出す予定です」
「そうですか。これから大変だと思いますが、頑張ってくださいね」
「いえ……大変なのは大地の方です」
「勿論大地くんも大変です。ですが僕が以前話したこと、覚えてますか?」
「……」
「悩みや苦しみは、他人に起こった時の方が辛いって話です」
「はい、覚えてます」
「それが明日から始まります。恐らくですが大地くん、禁断症状で苦しむことになります。奇声をあげますし
次の日。 目覚めると同時に、大地がトイレに駆け込んだ。「え……大地、どうしたの」 海が心配そうにトイレを見つめる。するとすぐに、大地の嘔吐が聞こえた。「大地……」 トイレの前に立ち、大地が出てくるのを待つ。しかしいくら待っても、大地の嘔吐は治まらなかった。「ねえ大地、大丈夫なの」「……大丈夫、大丈夫だから……すまん、放っておいてくれ」「放ってなんかいられないよ! 中に入る!」「来るな!」「……大地……」「すまん海、見られたくないんだ……大丈夫だから待っててくれ……」「……分かった」 冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し、カップに入れてレンジで温める。そして同じくコップにも入れた。 冷たいのと温かいの、どちらがいいのか分からない。だから両方用意した。「……」 トイレのドアがゆっくり開く。入ってから既に10分が経っていた。「大丈夫? うがいする?」「ああ、すまん……」 青ざめた顔でコップを受け取り、水でうがいする。そして海に言って塩をひとつまみ口に入れ、もう一度うがいした。「どう? すっきりした?」「ああ、少し落ち着い……ぐっ!」 そう言ってもう一度トイレに駆け込む。そしてまた、何度も何度も嘔吐した。 それはまるで、獣の咆哮だった。 * * * それから大地は何度もトイレに走り、最終的に便器を抱えたまま気を失った。 トイレから出そうとしても、脱力していて持ち上げられない。
「それはまた……すごい決断をしましたね」 その日の夜。 様子を見に訪れた浩正〈ひろまさ〉が、そう言って苦笑した。「ええっと、その……相談してからの方がよかったでしょうか」「ああいえ、そういう意味じゃありません。ただ何と言うか、すごいことをするなと思いまして」「そうですよね……」「ははっ、落ち込まないでください。二人で決めたことなんです、自信を持ってください」 そう言って、ベッドで寝息をたてている大地に目をやった。「大地くん、よく眠ってるようですね」「はい。それが私も不思議で……今まですごい量の眠剤を飲んで、それでも眠れてなかったのに。それなのにあっさり眠っちゃって」「……」「これってつまり、眠剤なんて必要なかったってことでしょうか」「いえ、そうはならないと思いますよ」 相変わらず穏やかな笑みを浮かべ、浩正が答える。しかしその言葉から、これからが勝負なんだという思いが伝わってきた。「今、薬を飲んでない大地くんがどうして眠れてるのか。それは僕にも分かりません。ただ言えることは、今の大地くんの体には、これまでの薬が残っているということです。楽観は出来ません」「そう……ですよね……」「ですがそう決断し、実行に移したんです。後は覚悟を決めて、この問題に立ち向かっていくしかありません」 海の肩に手をやり、小さくうなずく。「薬はもう、全て捨てたんですか?」「明日がゴミの日ですので、朝一番に出す予定です」「そうですか。これから大変だと思いますが、頑張ってくださいね」「いえ……大変なのは大地の方です」「勿論大地くんも大変です。ですが僕が以前話したこと、覚えてますか?」「……」「悩みや苦しみは、他人に起こった時の方が辛いって話です」「はい、覚えてます」「それが明日から始まります。恐らくですが大地くん、禁断症状で苦しむことになります。奇声をあげますし
「あんたの絶望は理解してる。愛する人を失ったんだから、そうなるのも当然だと思う。私もそうだった」「……」「でもね、それでもいいの。私にとって、あんたは世界一大切な人。大地と一緒にいる為なら、私はどんなことでも耐えられる」「……」「お風呂に入りたくないって駄々こねて、着替えもしなくて臭くても」「……ごめん」「ご飯を食べてくれなくて、泣きながら全部捨てるのが続いても。私は我慢する」「ひょっとしてお前、かなり怒ってる?」「当たり前でしょ。どうやったらあんたが食べてくれるか、私がどれだけ考えてると思ってるのよ」「そう……だよな……」「それなのにあんた、一口食べるか食べないかで『もういい』ってため息ついて。エンシュア飲んで煙草吸って」「……最低だな、俺」「そうね、最低。でもね、私はそれでもいいって思ってる。あんたと一緒にいられるんだったら、これぐらい受け入れなきゃって思ってる」「……」「ほんとはね、浩正〈ひろまさ〉さんにきつく言われてたんだ。何があっても、大地に感情をぶつけてはいけないって」「そう、なのか……」「今の大地と生活してたら、ストレスを感じることが多いと思う。それでもそれを悟らせてはいけないって。大地のような人は、それが伝わるとますます生きる意欲をなくしていくからって。俺はなんて情けないんだ、やっぱり死のう、そう思うって」「なるほど……な……」「大地と接する時は、なるべくいつも同じテンションでいろって言われた。だからそれに従った」「そうだったのか……」「それなのにあんた、デリカシーの欠片もなく、嘘くさいって言って」
時は流れ。 暦は3月に変わっていた。 大地の様子は特に変わらず、一日のほとんどをベッドで過ごしていた。 そんな大地に海は寄り添い、笑顔を向けていた。 大地の頬にキスし、「今日も生きてくれてありがとう」そう囁いた。 * * * 大地はぼんやり天井を見つめ、物思いにふけることが多くなっていた。 思索している、という訳ではない。 その時その時、浮かんだことを巡らせていた。 薬が減ったおかげで、少しずつ思考回路が戻っていく気がしていた。 まだ本調子には程遠い。しかし確実に、今の状況を俯瞰出来るようになっていた。 そして気付いた。 今の自分にとって、なくてはならないもの。 海の笑顔。 それが嘘くさいということに。 自分を殺し、無理矢理作った虚飾。 どうしてこいつ、こんな顔をするんだ? 怒りたければ怒ればいい。泣きたければ泣けばいい。 不満があるなら言えばいいのに。 ずっと笑顔のままだった。 そしてある日。 大地は聞いてしまった。 いつもの彼ならば、絶対口にしない筈なのに。 思考が散漫な今、何も考えずに聞いてしまった。 * * *「どうしてそんな作り笑い、海はしてるんだ?」 その言葉を投げかけられて。 隣で雑誌を読んでいた海の顔が強張った。「……海?」 海の様子に困惑し、大地がそうつぶやく。 海は雑誌を閉じ、肩を震わせた。「海……どうかしたか……」 大地が肩に手をやる。その手を荒々しく払い、海は大地を睨みつけた。「え……」 海の目に、涙が溢れていた。 そして震える唇を噛み、大
頭にずっと、靄がかかっている。 死のうとしたあの日から。もっと言えば、青空姉〈そらねえ〉が死んだあの日から。 俺の脳は正常に働くことを放棄した。 * * * 何も考えたくない。 何も思い出したくない。 そう思い、気が付くと。 俺は拘束されていた。 腕も足も動かない。 陰部に不快感がある。 後で知ったのだが、尿管を突っ込まれていたらしい。 コンクリートで覆われた、何もない部屋で一人。 季節も時間も分からない。 時折自分が誰なのか、どうしてこうなっているのか分からなくなった。 看護師が、物でも見るような目で俺を見ている。 点滴を刺し、俺を監視している。 少しでも動くと、「動かないでください」そう吐き捨てやがる。 俺、一体どうなっちまったんだ? ひょっとして、ここがあの世なのか? ここが地獄なのか? そんな馬鹿げた考えが浮かんだ。 * * * しばらくして、そこから解放されて。 俺は病棟の中を自由に動ける権利を与えられた。 有難いことに、煙草も支給された。 海が置いていってくれたらしい。 助かる。ありがとな、海。 …… 海って誰だっけ? よく思い出せなかった。 俺の中ではっきり思い出せる人。それは青空姉〈そらねえ〉だった。 そして。 あのクソ親と、学生時代に俺をいじめていたやつら。 思い出したくもないクズ共なのに、どうしてかそいつらの顔が離れなかった。 そういう時は男の看護師に頼み、注射を打ってもらった。 あの注射には本当、世話になった。 しかもこの看護師、若いのに注射がやたらとうまかった。 尻を出すと、筋肉の間にすっと刺し、あっと言う間に終わった。痛みも全くなかった。 そしていつも
一か月ぶりに外の空気を吸った大地。 しかし病院の敷地から出るまでに、かなりの時間がかかった。 海が肩を貸し、「大丈夫、大丈夫だから」と何度も促す。だが大地は首を振って拒んだ。 僅か一か月の隔離が、ここまで大地を追い込んでしまったんだ。海の中に後悔が渦巻いた。 浩正〈ひろまさ〉がすぐ傍まで車を移動し、海と共に支えて乗せた。 * * *「ご飯、どうしますか? 大地くん、お腹が空いてるんじゃないですか」 運転しながら浩正が話しかける。しかし大地は足元を見つめ、怯えた様子で首を振った。「じゃあ大地、宅配にしようよ。早く家に帰りたいだろうし、その方が落ち着くよね」 微妙な空気をどうにかしようと、海が必要以上にはしゃいでみせる。「そうですね、その方がいいかもしれません。じゃあ、このまま真っ直ぐ戻りましょう」「お寿司なんてどう? 今の内に注文しておくね」 そう言ってスマホを操作する海の指は震えていた。 * * *「……」 久し振りの我が家。 大地は中に入ると真っ直ぐベッドに向かい、横になった。「疲れちゃった?」 傍らに腰掛け、そう言って大地の髪に指を通す。 かなり汚れてる。油分がたまってる、そう思った。「もうすぐお寿司も来るし、とにかく食べよ? それからお風呂に入ってさっぱりして、今日はゆっくりしようね」 しかし大地は壁を向き、何の反応も示さなかった。 * * * 結局大地は何も口にしなかった。海の声掛けにも反応せず、気が付けばいびきをかいて眠っていた。「浩正さん、その……色々ありがとうございました」「いえ、これぐらいのお手伝いはさせてください。それからとまりぎ、しばらく休んでもらって大丈夫ですよ」「本当、すいません」